おはようございます。

2月の最終週にはいり、少しづつ温かくなって
きつつあるような感じもします。
でもこの季節の変わり目、寒さが戻ってきたり
します。油断できないですね。


先週の土曜日から、何やら私の心は、ある事で
不平、不満、愚痴、裁き、批判、様々な悪い思い
にやられてしまいました。
ある事とは、私の意図しない、希望していない事
ですが、それは明らかに神の祝福になるであろうと
予測ができる事、それを行うことでした。
でも私の自我がそれを嫌がり、自分の考えを正当化
しようと必死になり自己弁護に走った時、私の
心はさまざまな悪い思いにかられ、祈りさえも
妨げられてしまう結果になりました。
まさしく、私の思いと心は悪の手に落ちていました。

どうしても悪い考えや悪い思いから抜け出せなくて
神に祈っていても、神の前で愚痴不平不満ばかりを
並び立てて、「私を擁護してほしい、私は悪くないと
言ってほしい」と自己防衛の言葉ばかりを並び立て
長い時間神の前に出ていますが、少しも平安を得られず
虚しい時間を過ごしてしまいました。

これは私流かもしれませんが、自分の空に閉じこもって
あれこれ自問自答しても出てくる答えは自分の都合の良い
考えであり、そこから抜け出すことが困難な時、誰か
信頼できる人に心の内を話してみることです。
そうすると、自分の考えとは全く予想だにしない答えに
ぶつかり、最初はその答えに反発するのですが、それを
受け入れるとすごく視野が広くなり、進むべき道を
見いだせることがよくあります。
ただし、打ち明けるべき人をしっかり選ばないと大変な
ことになりますし、不平不満をいつもだれにでもぶちまけろ
ということではありません。そこにも神の知恵が必要ですね。


私の場合、大方主人がその助けをしてくれます。
「ああしたらいいのに、こうすればいいのに、あの人は
こうなればいいのに」などは、すべて自分の理想に当て
はめた自己中心、自分を中心にして物事を見ている結果
であり、その自己中心からは、不平、不満、愚痴、批判
しか出てこないということ、それを助言され、まさに
自分の中で抜け出せなかったトンネルから抜け出ることが
できたようでした。

私たち人は、とかく自分の物の見方、考え方、経験値で
物事や人を量り、自分が正しいというところからスタート
してしまうので、自分は正しくて、他人は間違っているという
穴から抜け出せないことがよくあります。

「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるか
のように思うなら、自分を欺いているのです。
おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば
誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人
に対して誇れることではないでしょう。」ガラテヤ6:3〜4

聖書にもありますが、パリサイ人や律法学者たちは、イエス様が
病人をいやし、悪霊を追い出し、さまざまな奇跡を起こしたことを
見て、彼らの意思に沿わない、彼らの学んだ経験と違うことをして
いるイエス様を責め、嫌悪感を抱きました。
その故に、人々はイエス様のしている業を罪と定め、十字架に
つけてしまったのです。
それは、すべて自己中心から出てきたものだと知ると、自己中心
は、日々聖霊様に取り扱っていただかなければならない課題だと
感じたこの2、3日でした。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって
互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」ビリビ2:3