おはようございます。

昨日の「神は世を愛された」の続き
です。

天地創造の神の御業は、創世記を
読むとその過程をひとつづつ見る
ことができます。

創世記1:31に
「そのようにして神はお造りになった
すべてのものをご覧になった。
見よ。それは非常によかった。」との
記述があります。

神は、天地万物の創造の業を完成され
た後「見よ。それは非常によかった。」
と、神が創られたものすべてに満足し
それは非常によかったとおっしゃった
のです。 

神の創られたものは、すべて麗しく
すばらしく、神の目から完全であり
最高のものだったということ、その
事に目が留まります。

神は、ご自分の創られた世界をとても
大切に思い、愛しておられる。
神が人を愛されるということは、いつ
でも意識の中にありますが、神が世を
愛されるというのは、 思いもしなかった
ことでした。

「世」ということばが、あまりにも
偏見的に捉えられてきて、この世は
汚れた場所であり「世を愛する」とは
世俗的なこと、霊的なことに反すると
いう意味で使われすぎてきたことに
気づきました。
その偽りの概念が、神がこの世を嫌っ
ていて喜んでいないと受け取ってしまい
「神は愛」だと言いながら、この世の中を
批判し、人々をさばいている心の片隅に
あった悪に、神は光をあてられました。

ヤコブの手紙4:4では、
「貞操のない人たち。世を愛することは
神に敵することであることがわからない
のですか。世の友となりたいと思ったら
その人は自分を神の敵としているのです。」

そのように確かに書かれています。
しかし、その部分の前後を読むと、それは
さまざまな人の自己中心からもたらされる
神のものでないものに妥協することについて
警告を発しています。

時々、私たちは聖書の一箇所だけをクローズ
アップして受け取り、聖書に「世を愛しては
いけない」と書いていると聖書全体がそうで
あるかのようにしてしまうことがあります。

ヤコブ書が書いていることも理解します。
確かにその通りです。
私は、これまでこの部分だけ、「世を愛する
のは神の敵」それだけに目を向けて、神様が
創られ、神が「見よ。それは非常によかった」
と満足されたこの世を大事に思ってこなかった
ことに、とても残念さを覚えました。

ヨハネ3:16の「神はそのひとり子をお与に
なったほどに、世を愛された」
世とは、もちろん人々のことです。しかし
それだけではなく、神が創られたこの世界も
神は愛され、この世界が敵の思うつぼになって
いることについてもっと関心を持つことが
神の願いであることを受け取りました。
神は人々のことを愛されている、そして
神が創られたこの世という場所、そこで
神の御心をしめしていくこと、神の国を
建て上げていくことが私たちの役割だと
私自身の心ではっきりと理解し、受け取
ることができました。

そこから更に深く主が教えてくださったことは
「神の愛」は、愛すること、慈しむこと、
憐れむこと、寄り添うこと、そのようなことに
心を配ります。

「宗教心」は、裁くこと、批判すること
拒絶すること 、義務感や律法に心を配ります。
ですから宗教は、それがもたらす義務や律法を
重んじるがゆえに、それを守るためなら人を
傷つけることも簡単にしてしまいます。
その間違いにさえ気づかなくなってしまいます。
神の愛と、宗教には大きな違いがあり、大きな
淵が横たわっています。
それは、全く性質の違うものであることを
心の底で受け取らせてくださいました。

私も長年のもうそろそろ30年になろうとする
クリスチャンですが、宗教心がこびりついて
神様の愛の中で生き、歩む人生ではなかった
ことを今更ながら気づき、悔い改めている
今日この頃なのです。

「神は愛」これは紛れもない、原点であり始点。
そこからすべてが始まる、それなくしてすべてが
虚しいことを神は、日々語ってくださっています。

今こそ、神の愛、はじめの愛に戻る時だと感じ
ています。